小川芋銭top 画集・作品 ゆかりの地 雲魚亭・河童の碑 人となり 足跡

ゆかりの地

芭蕉の旅心に憧れ方々を旅した芋銭。その生き方を決定づけたものは、こうとの結婚であった。妻こうは同じ村で農業を営む黒須巳之助の次女で健康的に優れ、強い意志を持った女性であった。芋銭は虚弱体質が故に嫌で嫌でどうしょうもなかった農業。その農業を妻に背負わせ、自らは家業を危惧することなく創作活動に没頭することが出来るようになった。そのような夫の自由奔放な生き方に不平不満を何一つ言わなかった妻であった。

芋銭が描こうとしたもの、それは旅の中から見つけた自然や、人とのふれあい、歓喜であり、旅なしでは到底見いだせないものであった。まさに「仙境の画人」と言われている謂われであろう。帰らぬ夫を待ち続けた妻こうの心境は、さぞ辛かったであろう。

各地を旅した芋銭。その中でも滞在が一週間から一年に及んだ丹波と、夏の間避暑を兼ねて滞在した銚子は、芋銭にとって、単なる旅ではなく、創作活動の拠点とも言える土地であった。

また、晩年の芋銭がたびたび訪れた娘の嫁ぎ先、文村先須賀川(現茨城県利根町)。ここは牛久から距離が短く、旅という言葉が相応しくないかもしれないが、晩年の芋銭の作品を語る上で欠かせない創作活動の場であったので特筆する。

丹波

芋銭の旅の中でも、特にお気に入りはまず丹波(特に兵庫県市島町)であろう。それは高浜虚子の門人であり気心の知れた西山泊雲がいたからである。

大正7年10月に初めて丹波を訪れ、西山家に一週間滞在した時、芋銭はすっかり丹波が気に入り、以後幾度も丹波を訪れる。やがて芋銭と泊雲は無二の親友となる。そして芋銭の三男と泊雲の娘を、泊雲の長男に芋銭の二女をそれぞれ結婚させ、小川家と西山家は親戚関係になったのである。

口すすぐ石もありけり水の秋

この句は、芋銭が泊雲方に逗留していた時詠んだ句で、酒造を営んでいた西山家の中庭の一角に泉が沸いていて、逗留中は毎日この泉で顔を洗い歯を磨いて、東に向かって拝んでいたという。

西山家は銘酒「小鼓」を醸造する蔵元で、聞くところによると、室内には芋銭の他に正岡子規や、高村光太郎などの著名人の書や絵、屏風絵などが所狭しと並んでいて、まるで私設美術館のようだったという。西山酒造前には、芋銭が詠った次の歌碑が建っている。

新しき酒かもせりと丹波路や竹田の里に竹たてし家

西山酒造の中庭

西山酒造玄関

丹波にたびたび赴いたもう一つの理由は、石象寺(同じく市島町)のたたずまいであった。芋銭はそのたたずまいが大変気に入り、長期逗留を決め込み、庫裏の二階を間借りして画室とした。

石像寺には「霧海の庭」があり高浜虚子とともに芋銭の句が建っている。

鷹鳴て蘭若の秋の晴に坐す

石像寺・霧海の庭

石像寺に逗留中描いた作品、「丹陰霧海」(大正13年院展出展)は石像寺の「霧海の庭」にある巨岩から眼下を見下ろした情景を描いたもので、山に囲まれた丹波の嶺々は霧に覆われる事が多かったのだろう。

石像寺では、芋銭が滞在した部屋を当時のそのまま残しているという。

芋銭が逗留した部屋から望む景色

銚子

五十六歳(大正13年)になった芋銭は、この年から晩年まで、たびたびあるいは長期に渡り、銚子海鹿島の「潮光庵」で過ごした。

「潮光庵」は芋銭を敬愛する篠目八郎兵衛(茨城県石岡在住)が芋銭のために逗留を勧めた別荘で、松林の中の八畳、六畳、台所という小さな家である。芋銭は、ここで一人静かに創作活動を続けた。

潮光庵
潮光庵の一室

その近くには尾崎行雄の「思学庵」があり、松林の道を抜けると見晴らしの良い丘がある。その丘を「海鳥秋来の丘」といい、実に文学的な表現のニックネームが付けられている。芋銭の句は、その「海鳥秋来の丘」から見下ろす海岸の、ひときわ大きな岩石で出来ていて、次のように刻まれている。

大海を 飛びいづる如と 初日の出

芋銭の句碑

この句は、現在の天皇陛下がお生まれになった時、その喜びを詠んだものと言われている。銚子は江戸時代より、墨客・歌人・俳人らの来訪が多く、江戸文化の影響を強く受けていた。そのため、いろいろな文学碑が残っている。芋銭の句碑以外にも、松尾芭蕉句碑 古帳庵句碑 国木田独歩詩碑 竹久夢二詩碑 尾崎咢堂(行雄)歌碑 尾張穂草歌碑 佐藤春夫詩碑 高浜虚子句碑 源俊頼歌碑などが建っている。これらの多くは「海鳥秋来の丘」から近い海岸線にたっている。太平洋が180度広がる大パノラマは、画作に於いても文学活動に於いても、大きな作用を及ぼしているのであろうか。

小川芋銭ゆかりの地としての銚子には、「大内かっぱハウス」という美術館がある。これは元銚子市長の大内恭平さんが、全国から集めた河童アイテムを集めたもので、4千点以上のコレクションが展示公開されている。その中に芋銭が描いた「渇波と狢藻」が展示されている。河童を渇波と表現したところが芋銭らしくて面白い。 

文村横須賀(現茨城県利根町)

長女(はな)が嫁いで以来、その嫁ぎ先である弓削家(茨城県北相馬郡文村・現利根町横須賀)をたびたび訪れる芋銭であったが、昭和10年10月から12年9月までの2年間は遂にここの住民となったのである。

それは仕事の都合で弓削家が一家を上げ長期的に家を空けることになり、芋銭がその留守番役を引き受けたためであった。芋銭は始め、ここを隠棲の地として、静かな気持ちで絵を画きたかったのであろう。ところが、文村に移ったことが世間に知れ渡り、来客の対応に追われたという。文村横須賀は、成田線布佐駅(我孫子より3駅目)からタクシーで約10分の近さだった。牛久と比べると東京から近かく、以前にも増して、訪問客が増えたのである。 そのような訪問客を謝するため、玄関先に掲げた「面会謝絶」の貼り紙さえ、芋銭の書なら高価だからと、引きちぎられたほどであった。

横須賀に滞在した2年間に制作した作品数は大小およそ60を数え、それらの大部分は晩年の代表作となった。その中で特に有名な作品に「湖上迷樹」、「桃花源」「古文水土冝・清夜吟」がある。もちろん俳画などの小品も多数制作している。

利根町の古老たちの記憶によると、「カッパのイモせん」などと親しく呼んでいたことを記憶していると言う。単に絵が巧かっただけでなく、人格にも優れていた一面を知ることが出来る。