道仙田河岸跡

所在地 龍ケ崎市長沖新田町

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河岸とは

近世における年貢米等物資の輸送は、河川を利用した船運による水上交通が大きな役割を担っていました。その船運の主役が高瀬舟で最大積載量は1,200表(1表=60㎏)でした。そのほか少し小型の平田舟は100俵から300表の積載量で、茶船は60俵~100俵のほか乗客5、6人程度乗せることが出来ました。これらの川船は河岸から河岸を結ぶ形で主に物資を輸送しました。

河岸とは、単なる船着き場を指すだけでなく、河岸機能の中核となる船問屋があり、船持、船頭、水主(カコ)らが居住する場所でもありました。狭義では幕府公認の独占的な営業権を有する河岸場御運上と呼ばれる運上金・冥加金を納める船着き場のことを河岸といいます。こうした河岸は陸上交通の要所と水上交通の接点に発達しました。

※舟の種類や積載量は地域によって違い、ここでの積載量等は利根川流域限定となっています。

小貝川の舟運と道仙田河岸

小貝川の場合、上流は鬼怒川との競合があり河岸は成り立たなかったようですが、下流域だけで、15~16か所の河岸がありました。その中で幕府公認の河岸は樋口、伊丹、八間、上道仙田(河原代)、道仙田の5か所で、最大積載量450俵の高瀬舟も航行するほどでした。辺加(べか)と呼ばれる小舟を使い、新八間掘を接点として小貝川と牛久沼を行き来する舟運もあり、小貝川舟運の一部を形成していました。こうした小貝川舟運の中心として栄えたのが道仙田河岸です。

道仙田河岸は長沖新田(一部川原代の境界線に被る)に位置し、後に川原代道仙田にも河岸が出来たため、長沖新田の方を下道仙田河岸、川原代の方を上道仙田河岸と区分けしますが、上道仙田河岸は規模が小さく、一般的に道仙田河岸と呼ばれているのは下道仙田(長沖新田)の方になります。

元禄3年(1690)幕府は江戸廻米の要所たる河岸を統一的に把握するため河岸吟味を行い、江戸までの廻米運賃を制定しました。この河岸吟味で江戸廻漕の指定を受けたのは関東水系では88河岸で、そのうち小貝川では上流の樋口と下流の道仙田の2河岸だけでした。

なお、道仙田河岸から江戸までの航路は、いったん利根川に出て、利根川を遡行し、関宿(千葉県野田市関宿町)を経由して江戸川を下るルートとなっていました。

このように繫栄した道仙田河岸でしたが、明治29年(1896)日本鉄道土浦線(現JR常磐線)が開通すると、物資輸送は鉄道が中心となり徐々に寂れました。それでも大正初期まで伝馬船(小型の船)が通っていたそうです。

大正11年(1922)に小貝川の流路変更があり、道仙田に向けての河川は塞がれて河岸は完全に終焉となりました。