古八間堀

所在地 取手市新川/龍ケ崎市稗柄町

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牛久沼は、面積の広さの割には水深が浅いため集水能力が低く、洪水を起こしやすい沼であった。たびたびの氾濫で沼の周辺、特に小貝川(当時は鬼怒川)との狭間の低地部分は菅場谷原と呼び、一面湿地帯だった。

この菅場谷原を干拓するためには、小貝川の治水とともに、牛久沼の水を制御する必要があった。この工事を請け負ったのが伊奈忠治である。

水抜き堀は江川だけだったが、牛久沼の水を排水するには不十分な施設であった。忠治は寛永4年(1627)弥左衛門新田(取手市)から小貝川にかけての新水抜堀を開削した。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになった。これにより牛久沼の排水能力は高まり、その後に建設された二千間堤と合せ菅場谷原の新田開発が急速に進められた。

後に、400m程東側に新しく八間掘が出来たため、今までの八間掘を古八間堀と呼ぶようになった。新川は今でも地名として残っている。