津田農場
明治政府は殖産興業を政策の柱とし、明治8年、御雇外人のデダフルシュ・アップ・ジョンスは、内務卿大久保利通に、常陸、下総、上野の荒蕪地調査の上申書を提出し、荒蕪地の開拓営農の方法を提言した。
この提案に基づいて、和歌山県士族津田出は千葉、茨城両県にわたる官有荒蕪地18ヶ所、3000町歩に及ぶ、日本で最初にして最大の洋式大農法経営に取り組んだ。 彼は藩政改革の実績を買われて明治政府に迎えられながら失脚し、その後この壮大な試みに挑戦したのである。
この津田農場の中で最大規模の700町歩を有する第七農場(明治11年開始)が女化原であった。しかしこの経営は間もなく不振に陥り、明治24年頃から津田は農場を次々と手放し、大農場は小作農地へと変っていった。このころ入植した徳島、香川の農民がその後の女化開拓の中心になっていった。
女化への移住
明治22年は天候不順で米の生産は全国的に不作であった。それに伴い翌年の23年は米が高騰し明治始まって以来の恐慌を巻き起こした。人々の生活は貧窮のどん底に陥り、全国で米騒動が起きた。そんな中で四国山脈の徳島県、香川県の山間の各村は特に耕地が狭く、他県への移住が頻繁に行われていた。移住者達は、多くは北海道であったが、ちょうどその頃、津田出による千葉県、茨城県の大農場への移住の募集が行われていた。彼らにとって、北海道への移住は想像を絶する厳しさで、それよりも東京に近い千葉、茨城の大農場は暖かい理想郷のように思えたはずだ。何故なら津田出の大農場の募集広告は移住希望者にとって願ってもない好条件が並んでいた。以下の通りである。
- 大農地故地子(土地の使用料)は安い。
- 地味宜しき収穫多い。
- 水利は利根川などその他川が多く豊富
- 東京に近くわずか2時間である。
- 古くから水害の無いところである。
しかし、彼らが目にした女化原は募集要綱から想像していた理想郷とはかけ離れていて、見渡す限りの萱、ぶな、萩が密生した荒れ果てた広野であった。
開 拓
現実の女化原は関東ロームによる酸性土に覆われていて、耕しても耕しても稔らぬ大地であった。そんな中で移住農民たちは粗末な掘っ立て小屋に住み、途方に暮れながらも、いずれ花開く大地と信じ開墾に精魂傾けた。
関東ロームの中から、僅かに残る「まつち」(黒い土)を探し求め耕作地としたが、しかし20年ぐらいは満足な収穫はなかった。冬は筑波颪の冷たい風と霜に農作物はやられ、夏は日照りでと水害で麦が取れない。開拓者たちは飢えを凌ぐため、近場の農家や常磐線の鉄道工事に日銭稼ぎに出かけた。また津田農場の経営の失敗は更に彼らを不安に陥れた。その結果、開拓者たちは大農場の雇用者から小作農民へと立場を変えることになる。そのために僅かな稼ぎの中から金を出して手にした土地、それはまさに、汗と涙の結晶であった。
やがて開墾の努力もあって耕作地は大幅に広がり、麦の他に作れるものは何でも作った。陸稲、サトイモ、ひえ、粟、大豆、とうもろこし、甘諸、たばこ、などなどである。更に明治40年になると、加燐酸灰肥料が普及し、生産額は急激に増加した。
尚、津田農場崩壊の裏側で、神谷伝兵衛という洋酒醸造の先駆者が、その農場の一部を買い取り、ぶどう園とし、更に牛久駅の程近くに醸造施設「牛久シャトー」を完成させ、女化開拓の新たな一面を切り開いた事を、付け加えておこう。