春鮒日記 向い風 野つらは星あかり 母、住井すゑ

住井すゑ「野づらは星あかり」

あらすじ

終戦、そして夫(要吉)の復員から始まり、終戦直後の一農村の貧しくても笑いの絶えない暮らしぶりを書いたホームドラマ風な作品。それは終戦から朝鮮動乱が始まる頃迄の5年間ほどの物語であるが、さり気なく書き綴っている中に、一章を読むごとに、春夏秋冬季節の移り変わりや時勢の変化、農村の暮らしぶりや農業の仕組が着実に変わってゆく様が見事に描かれている。

特に、終戦直後の稲敷台地の農村の生活模様を知る上で、欠かすことの出来ない至宝の小説となっている。

( )内は章の表題

佐貫駅(トンボ竿)

要吉は無事ふるさとの佐貫駅におりたったのだが、そのまま家に帰る勇気がなかった。妻のなみは果たして自分を待っていてくれるだろうか。一人で田畑を切盛りしたのだろうな。子供たちは元気に育っているだろうか。村の人々はみんな達者だろうか。いろんな思いが脳裏を去来する。戦争とは言え、暫く家を空けたことへの不安はつのるばかりだった。

ぼんやりと、竜鉄へ乗換える人たちを見ている要吉。当時の佐貫駅舎は、駅の壁に木製のベンチが造り付けられていて奥行きがあって、内部は薄暗く、駅の中から、竜鉄側に明るく広がる田園風景を見ることが出来た。おそらく、住井すゑはそんな佐貫駅の雰囲気に愛着を感じていたのだろう。彼女の代表作「向い風」では、主人公の健一は最寄り駅牛久を避けて佐貫駅に降り立っている。

関東鉄道竜ヶ崎線は佐貫~竜ヶ崎間、途中一駅という僅か8kmの短いローカル鉄道で、この小説の当時は、竜ヶ崎鉄道といって二両連結の蒸気機関車が走っていた。そして、当時の佐貫駅は常磐線の改札口と竜鉄の改札口が一直線になっていて、常磐線が到着すると、二つの改札口を結ぶ人の列が出来て、なかなか竜鉄の方へと進めなかった。竜ヶ崎は、稲敷地方の中心的な商都として古くから賑わっていて、そのため佐貫駅に列車が着くたびに改札付近は人がごった返ししていたのである。その中には商人もいれば、買い物帰りの主婦や学生、それらに混じって、要吉と同じ復員兵もいただろう。駅のベンチに腰掛けて、そんな光景を暫く眺めていた要吉であった。

〝光る沼"、この表現は、住井すゑが小説の中で何度も使っている。牛久沼のことを〝大地のえくぼ"と称した住井すゑ。牛久市城中の彼女の自宅裏庭から見下ろす朝明けやの牛久沼はたしかに〝光る沼"であり、えくぼのような微笑でもある。一方、落日の牛久沼も〝光る沼"の表現にぴったりで、要吉が、3年ぶりに見る牛久沼、それは国道6号線沿い、鶴舞付近から見る夕日に反射した光る沼だった。とにかく、夕日が反射した牛久沼は美しい。

龍ヶ崎市庄兵衛新田から見る牛久沼の夕焼け

お召列車(五十銭黄銅貨)

まさに秋--。 一年間の中で、極めて忙しい農繁期の季節である。農作業を終えた人々が慌しく行き交う牛久沼畔

現実の牛久駅と佐貫駅の中間にあたる踏切は遠山踏切が該当する。牛久沼沿いの国道6号線、牛久市と龍ヶ崎市の市境からやや牛久市寄りに入ったところに位置し、確かに昔から事故の多い踏切だ。そうすると、小説の主人公、要吉と妻のなみが帰ろうとしている部落(むら)は遠山町(牛久市)に存在するのだろうか。この踏切付近一帯から東南に広がる台地上は牛久市遠山町となっている。

小説の冒頭で、

と書かれている。そして、後の文章によると中原は女化神社に続く稲敷台地となっている。牛久沼、女化神社、この二つのキーワードにより、中原むらはやはり遠山町としか考えられない。ところが、その場所はむらを形成するには人家が少なく、また眼下に牛久沼を見下ろすこともやや困難で、小説の中原むらとは随分イメージが違っている。ところが、牛久沼から女化に続く台地上。その青々とした田園の長閑さは、住井すゑが小説の中でイメージを膨らませるに充分な場所だった。

農作業を終えた要吉と妻のなみは家路へ急いでいる。しかし踏み切りの手前で、警官に行く手を遮られた。下がれと言われても、荷車を引いている要吉となみにとって、それは大変なことでり、まして踏切を渡らない限り家には帰れない。

警察官のただならぬ緊張と横暴ぶり、この理由は、天皇陛下が戦後の民情視察のため、水戸まで巡幸遊ばされるとのことだった。つまりお召列車がここの踏切を通過するからなのだ。そうと分かっても、要吉となみは釈然としない。大臣だろうが、大将だろうが、裏はともかく、表向きはみな天皇の命令で動く臣なのに・・・。その臣達が、戦犯として葬られているのなら天皇も同じはずなのに、お召列車で、日本中を巡幸と称して旅行している。こんなの、どうしてもおかしいよ。・・

とにかく、要吉となみにはまったく関係のない迷惑な話であった。

何気ない風景描写の中に、不条理に遮られた時間と、急ぎ足のごとく太陽が傾いてゆくさまを対比させている。要吉には、それでも日が暮れるまではもう暫く時間があると・・・・。

遠山踏切付近

鼻輪(鼻輪)

長閑なはずの沼畔の中原むらの光景は、この日だけは違っていた。

要吉の隣の牛が逃げた。逃げたのではなく盗まれたのかもしれない。一頭の牛を巡って沼畔は朝から騒然としている。

戦後の農地改革によって、小百姓たちの農奴の重いくびきから開放してくれたアメリカ。しかし、その正体は日本という牛に鼻輪を通し、有無を言わさず、「労役」に借りたてる主人でしかない。

今も昔もアメリカのやる事は、力による主義主張の押し付けであり、弱者はそれに従わなければならないのか・・・・。

口々に〝牛は女化のヤマへ隠されている"とっ囁きあった。

そこで、牛の捜索は二班に分かれることになった。一班は中原を北に抜けて女化へ、二班は南に廻って柴原から女化へ。

捜索隊の〝牛は女化のヤマへ隠されている"という思い。なぜ女化なのか、このことは小説では特に説明されていないし、また説明の必要性もない。が、住井すゑはエッセイ集等で女化のことをたびたび書いている。若い頃は歩くことが好きだった住井すゑ。彼女は牛久市城中町の自宅から国道6号線方面に向かい、古根屋橋を渡り、国道を横切り、遠山踏切を渡り、旧水戸街道に出て、遠山、成井、永山(若柴)を通過し、女化までの約6kmの道程を、長閑な風景を眺めながら歩いたのだろう。無宗教の住井すゑとしては異例であるが、女化神社の初午に詣でるこは特別楽しみにしていた。この女化迄の道中の過程において、小説の中原むらのイメージが出来上がったのだと思う。物語の中の中原は、現実の地名で言うと遠山町、柴原は若柴町、しかし女化は物語の中も、現実の地名も女化。それだけ女化に対する思いは強かったのだろう。

朝から始まった捜索は午後三時で終了した。それぞれ中原に戻ってくるが、結果は誰も牛を見つけることができなかった。慰労を兼ねて遅い昼食と酒が出され、話題は混ぜ飯の旨さに集中する。この頃は各家庭でそれぞれの味があった。つまり自家製醤油、自家製味噌で作った料理は、独特の香りがあり、特に空腹時にはたまらない美味しさだった。