小川芋銭top 画集・作品 ゆかりの地 雲魚亭・河童の碑 人となり 足跡
雲魚亭・河童の碑
雲 魚 亭

晩年の芋銭は、長女はなの嫁ぎ先である文村須賀川で過ごすことが多かった。文村に滞在中の2年間、父のためにと長男がアトリエを新築したのであるが・・・。
昭和12年9月、アトリエ完成とほぼ時を同じく牛久に戻ってきた芋銭であったが、翌年の1月脳溢血で倒れ、病床の身となった。後に「「雲魚亭」と名づけられたこのアトリエは、芋銭にとって、同年12月他界するまでの11ヶ月の短い間の病気療養の場であった。
現在は牛久市生涯学習課によって記念館として管理され、広く開放されている。
館内には、芋銭の作品のほか、芋銭の遺品(硯、筆)が展示されている。また希望者には芋銭にまつわる記録ビデオを見ることが出来る。開館時間5/1~10/31 9:00~17:0011/1~4/30 9:00~16:00館内見学は、土曜・日曜・祝祭日のみ。火曜から金曜までは屋外からのみの見学になります。(団体20名以上であれば平日でも館内見学可能。ただし、予め申込みが必要)休館日毎週月曜日及び12月28日~1月4日交通牛久駅より徒歩30分 タクシー5分住所茨城県牛久市城中町2773-2入場無料

雲魚亭
雲魚亭パンフレットより
これは牛久市生涯学習課発行のパンフレットで、昭和63年頃入手。とても珍しいので紹介します。



河童松碑
河童の伝説とともに親しまれた河童松は今はない。河童松のあった場所に河童松碑が建立されている。
この河童松碑の裏側に次のことが書かれている。

牛久沼を望むこの地にひときわ高くそびえ、牛久の歴史を静かに見守ってきた一本の老松があった。樹齢500年余を数えたこの松は「河童松」と呼ばれ一つの伝説と共に地域の人々に親しまれきたが惜しくも先年枯死しその歴史を閉じた。
沼周辺に遊ぶ水鳥たちが羽を休める格好の場として夕暮れともなるとこの木に数百羽の鳥が集まりねぐらとしたという。当然のことながらこの老松は芋銭のの画題となるところなり。「牛久沼河童松」として傑作の一つに数えられている。
芋銭生誕120年を迎えたこの機に河童松を植樹すると共に芋銭自筆になる「牛久沼河童松」を碑刻みここに建立する。
1988年2月
小川芋銭生誕120年記念事業実行委員会
会長 牛久市長大野正雄
与一の歌碑

朝タに 芋銭したしみ ながめたる 沼の向こふの 富士美しき
この歌碑は作家で歌人であった「中河与一」が芋銭の雲魚亭で過ごした日々を思い、その胸中を詠んだもの。
河童の碑
正式名称 芋銭先生記念碑

建設迄のエピソード
昭和24年4月、犬田仰氏によって「芋銭碑」の建設が発案された。日本美術院の横山大観や小林巣居人に賛同を求め、概ね趣旨には賛同するものの、実際に動き出す状況にはならなかった。そのような時、芋銭の良き理解者の俳人西山泊雲(兵庫県丹波)と池田龍一(福島県医師)が具体的な建設に乗り出す。西山泊雲は計画の半ば亡くなり、子息の謙三が遺志を継ぐ。実質的な建設は池田龍一氏によって進められた。また、画家の吉井忠氏(池田氏の友人)が献身的な働をした。
碑の表面に河童の絵を、裏に芋銭さんの自筆略歴を入れること。碑の大きさは2メートルぐらい。と、具体的な案を池田氏が提案する。完成した碑には、池田氏を始め、それに拘わった人々の名前はどこにも見あたらない。河童の碑は心から芋銭を敬愛する人たちによって建てられたのであり、自分の名前を後世に残そうと言う気持ちはさらさら無かった。
吉井忠氏が碑の材料入手から彫刻、碑の運搬に至るいっさいを行った。碑の材料は東京の護国寺境内にあった根府川の自然石を求め、彫刻もそこで行なった。碑の中に描かれた河童の絵は芋銭晩年の作「河童図」の複製画」を相応の大きさに引き伸ばし、中村直人が監修、八柳恭次氏が二ヶ月要して彫り上げた。
除幕式は、昭和27年5月25日に挙行された。芋銭先生記念贈呈書」によると贈呈者は(池田龍一、犬田仰、飯野逸平、篠目篤、小林巣居人、西山謙三、吉井忠、加藤鎮雄)贈呈先(芋銭先生御奥様ほか御一家様」となり、つまり河童の碑は小川氏個人の所有物なのである。また除幕式にあたって、池田氏は「芋銭の芸術と人柄を考えると簡素なもので十分」と述べている。
正面は芋銭筆の河童座像と,右側に芋銭筆の「誰識古人画龍心」の画賛を刻入,
「誰識古人画龍心」の謎

河童の碑表面に掘られた「誰識古人画龍心」とはどう言う意味なのであろうか。平たく読むと「誰か識る、古人龍心を画を」あるいは、「古人龍心を画けるを」となる。
牛久市公式HPや牛久観光協会HPによると次のような解釈が載っている「昔の人は龍を描いて宇宙大自然の偉大さを表現したように芋銭は河童を描いて科学を超越した万物の根元である太陽系大自然の偉大な掟、即ち"道"の探求に生涯を捧げようと努力をしているが誰かこれを理解してくれる人がいるのであろうか?」これは公式見解とと言えるだろう。一方、小川芋銭と交流があった住井すゑの解釈は若干ニアンスが違う表現で次のように解りやすく、「昔の人がどうして龍を描いたか。龍というのはこの世にはいない。しかし自然界の不思議さ、なぜ宇宙があって、太陽系に地球があって、その地球にはいろいろの生物がいるのか、どこからどのように生物が生まれたのか、考えれば考えるほど不思議だ。」と、「小川芋銭効き歩き逸話集」に言葉を残している。いずれにしても哲学に裏付けされた奥深い言葉で、この真意を理解するには、老荘思想の勉強が必要かもしれない。
河童の碑裏面について

芋銭自筆による略歴が刻まれている。
明治元年二月東京赤坂溜池ニ生ル
同十四年本多錦吉郎経営ノ彰技堂ニ入リ洋画ヲ学ブ
亦市隠抱朴斎ニ赴就キ漢画ヲ凍問フ
後費漢源ノ画風
鳥羽僧正ノ筆赴ニ傾倒シ
南画及漫画ヲ描ク」
大正六年日本美術院同人トナル
自筆略歴によると、芋銭は、彰技堂で洋画を学びながらも、抱朴斎という市中の絵描さんから漢画を学んだ。その後、中国の画家費漢源に傾倒し、鳥羽僧正(国宝鳥獣戯画の著者)の筆趣に傾倒し、南画及び漫画を描くようになった。そして大大正六年日本美術院同人になったことが記されている。
所在地 牛久市城中町 雲魚亭に隣接

河童の碑から望む牛久沼