八代(大字八代/旧八代村)
現在の八代町、城ノ内の大部分、中里の一部、白羽の西部
主要部分

全体地図

旧八代村について
現在は八代と表記されていますが、歴史的には屋代あるいは社と表記された歴史があります。その歴史は古く、下八代の某私邸に稲塚と名が付いた小さな山があります。その頂上に祠があり稲敷神社と呼ばれています。この稲塚を地元の人は筑波山と呼んでいて、『常陸国風土記』によると、「飯名社(稲塚)が筑波山の分かれとする飯名神の敷地があり、この地を稲敷郷と呼ぶようになった」としています。『常陸国風土記』は奈良時代初期の和銅6年(713)年編纂の地史であり、これは龍ケ崎市域の中でもっとも古い記録といえます。
稲敷郷と呼ばれていたこの村がいつ頃から八代(社)といわれるようになったかは不明ですが、鎌倉時代の弘安10年(1287)12月に「東条荘上條内社村」から熊野神社に戸帳が送られたという記述があり、これが正しければ弘安10年以前に社(やしろ)村が存在したことになり、東条荘の支配地であったと考えられます。その後、居館を構え、社村を治める東条氏を東条社氏と呼ぶようになったと考えます。
南北朝時代になると永和3年(1377)雑貨希善が屋代師国の拝領地「東条内社村」へ使節として向かったという記述があり、永和3年以前に社村は屋代氏の所領となっていたことがわかります。
戦国時代は、大永3年(1523)に土岐原氏が「屋代要害」を攻め落としている記録から屋代に城郭があったことが分かります。「屋代要害」とは屋代城と考えられています。これ以降、屋代村(社村)は江戸崎土岐原氏の影響下に置かれました。その後、土岐胤倫が龍ケ崎に居城を構えて以降は龍ケ崎領となります。しかし土岐氏滅亡後は芦名重盛が江戸崎城に入り、龍ケ崎領は江戸崎領に併合され、芦名氏の支配地となります。
集落の成立ちは、八代の北側に破竹川が流れ谷となっていて、枝分かれした谷が南下し、西に曲がり現在の城ノ内中学校手前まで谷となっていました。この枝分かれした谷が寺谷と呼ばれ、桂昌寺が鎮座していました。八代の集落はこの寺谷から始まり、桂昌寺を中心に台地上の東西に広がったといわれています。
江戸時代になると、常陸国江戸崎東条荘八代村を経て常陸国河内郡八代村となります。沼沢だった台地の南側が開拓され、広大な農地が広がり、多くの住民が台地下の微高地に移転し、東西に細長い近年の八代村の形が出来ました。八代村の石高は356石で、領主は長岡藩、旗本、幕府代官の相給(あいきゅう)となっていました。
集落は上八代(西側)と下八代(東側)の二つに分かれていましたが、上八代の一部の坪が中八代を形成し、現在は上八代、中八代、下八代となっております。
明治22年(1889)町村制施行に伴い、八代村、羽原村、別所村、泉村、貝原塚村、薄倉村の6村が合併し、河内郡八原村が発足します。これに伴い八代村は消滅し八原村大字八代となります。明治29年(1896)信太郡・河内郡が合併し稲敷郡が発足し、稲敷郡八原村大字八代となります。昭和29年(1954)龍ケ崎町、馴柴村、八原村、長戸村、大宮村、川原代村、北文間村が合併し、龍ケ崎市が誕生します。これに伴い、八原村は消滅し龍ケ崎市八代町となりました。
昭和48年(1973)から始まった日本住宅公団による竜ヶ崎ニュータウン龍ケ岡住宅地開発により、八代町台地部山林の多くは住宅地として区画整備され、城ノ内及び白羽へと地名変更になりました。城ノ内はほぼ全域、白羽の西半分は元八代町でした。ちなみに白羽の東半分は長峰町でした。
城ノ内という地名は屋代城に由来の八代村字城ノ内の字名から採ったものです。